まどマギとタイバニがヒットしたので、萌えシチュだけの産業になっていたアニメにストーリーへの志向がやっと戻ってきた!みたいな論調があるようです。ナカタ的には、タイバニは必ずしもストーリーによってヒットしたわけではないと思っているのですが、ストーリーを志向した作品「も」、また増えてくれると自分としては嬉しい。
そんな昨今、『輪るピングドラム』に注目しています。
非常に説明しづらい作品です。あらすじを語ることはできるのですが、どういう話だ、と誰かに伝えるのに非常な困難を感じます。特に、ネタバレを避けて語ろうとすると、なんのことやらわからない状態に。
『輪るピングドラム』にも、物語はありますが、あらためて、物語とはなんだろう、と、思わされる作品です。観ているとたしかに、「ストーリーが展開している」感じがします。というより、非常なドライブ感やダイナミズムを感じる。でも、それはまどマギやタイバニの展開とはちょっと性質が違う気がする。
『輪るピングドラム』は、そもそもジャンルを特定しづらい内容ですが、いちおうサスペンスやミステリの類縁なのかなと感じています。SF的な設定はあるけど、この作品のエンターテインメント性は「あきらかでなかったことが、あきらかになっていく過程」において発生しているからです。
ただ、ミステリは、謎が提示され→それが解かれる、という構造になるのに対して、ピングドラムでは、謎があるんだかないんだかわからない状態で、ふいに、「解答」が差し出され、「あっ、そうだったのか!」という驚きがある、という形なんですね。謎が解かれて、解かれたあとに、時系列を遡って、謎が発生するというか。謎だと思っていなかった部分が、実は謎であったのだ、とあとから気付かされる。
そのことは、12話を観たときに決定的に感じて、あらためてこれは非常に類稀な作品だ、と思ったのでした。
具体的には、一家の両親がいないことは1話から描写されていますが、特につっこまれないため、なんとなく「亡くなったのかな?」くらいの感じに思わされる。でもどことなく違和感があり……というのは、亡くなっているとしたら、亡くなっていることを前提にした描写やセリフがありそうなのに、ない、という状況で進んできて、突然、事情の一端が明らかになる。すると、そこから遡って、今までのいろいろな描写やセリフや展開が、まったく違った印象に上書きされるわけです。
苹果ちゃんの姉のエピソードもそうだし、陽毬とダブルHの話もそう。
たぶん最終回を観終わったあとに、1話から見返すとまったく違ったふうに見えるアニメだと思います。
これは、いわゆる「テクスト論」によって説明できると考えます。
そこに書かれている小説(の文章)、描かれているマンガ、フィルムのうえの映像は、当然ですが、いちどつくられたあとは、変化することはない、静的なものです。それを読者・視聴者が読んだり観たりするとき、読者・視聴者がそこから汲み取り、受け取り、解釈したり理解したりイメージしたりする、いわば脳内に展開される内容は、これは必ずしも、媒体のうえに記録されている静的なコンテンツとは一致しません。
たとえば、小説は文字だけだけど、読者は読んで、その内容をイメージするじゃないですか。そのとき、頭の中にはビジュアルが浮かんでいたりする。これは、読者一人ひとりによって違うし、同じ人でも読むたびに同じではないはずですね。単なるブレだけじゃなくて、読者が持っている情報によっても左右されます。ある小説を読んで、その後、作品がアニメ化されて、それを観たあとは、再読時に、登場人物の声がアニメの声優さんの声で脳内再生されたりする――なんてことは普通にあると思いますが、これは、読者がアニメを見てしまったからそうなるわけです。
この、イメージされるほうの物語のほうをテクスト、と呼ぶのですが、『輪るピングドラム』は、展開とともに提示される情報によって、積極的にテクストが更新されていき、また、そうなることを非常に強く意図してつくられている印象があります。そしてそのことが、この作品をもっとも特徴づけている気がして、そこが新しいように感じました。
つまり、普通、「ストーリーを楽しむ」というと、「この次はどうなるんだろうか」とか、「ああ、こういうことになるのか」とか、そういう感覚でしょう。ピングラムの場合、それもあるんだけど、そのあとに、もう一度、以前のお話を思い返したときにあらためて驚きがある、という感じなのです。
うまく説明できていないかもしれませんが、従来的な意味での「ストーリー志向」ではないように思います。もっとメタ的な楽しみ方を示唆されているというか。
このアニメにはノベライズ本もあるようなので、そっちがどんなふうな書き方になってるのか興味ありますね。
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2011年10月02日
2011年04月17日
「良い世界観」とは語られていない物語だ。〜『フラクタル』『TIGER & BUNNY』『魔法少女まどか☆マギカ』
2011年春のアニメでいちばん楽しみにしていた『フラクタル』が、商業作品の評価が甘いことで定評のあるこのナカタセイジでさえ擁護できない残念感あふれる作品として終わってしまいました。なぜ、このアニメはこんなにもいまいちだったのか、と考え、「世界観」というものについて考察したので、久々の研究レポートをまとめます。
●「世界観」には最初から物語の種が埋めこまれていないといけない
よくあるダメな感じの小説サイトで、なにか壮大なファンタジーの構想があるらしくって、「世界設定」を紹介するページとかあって、地図なんか載ってるんだけど、一向に本編がはじまらない……みたいなのがありますね。このへん、あまり追求すると胸が痛い人も多いと思うのでこれ以上踏み込みませんけれど、創作において世界観とは何なのか、ということを考えたい。
TRPGやPBWの世界観づくりという作業をしたことがあるひとがどの程度いるかわかりませんが、小説やマンガのそれと違って――というより、小説やマンガのそれよりも、よりはっきりと意識されなくてはならない作業の要件として、「世界観はシナリオソースになっていなければならない」ということがあると思います。
たとえば、こんな「世界観(世界設定)」があるとしましょう。
=====
なんたら大陸のなんとか地方。
中央に、なにがし王国。賢王が治める平和な国で、冒険者がたくさんいる。
西には「魔の森」という鬱蒼とした密林が広がり、昼なお暗い森にはアンデッドが跳梁する。
東の荒野は蛮族ホゲホゲ族の支配地で、辺境の村はときおり彼らの略奪に遭う。
=====
この設定は、
・魔の森に迷い込んだ旅人を救出し、アンデッドを退治するシナリオ
・辺境の村を蛮族ホゲホゲ族の襲撃から守りぬくシナリオ
が、このゲームにおいて発生することを内包しています。
これを「シナリオソース」といって、すなわち「物語の種」と言える。
ここで重要なのは、それはあくまでも世界観の段階では「種」であって、物語そのものではない。「魔の森に迷い込んだ旅人を救出し、アンデッドを退治するシナリオ」は、起こりうるけれど、「起こらないかもしれない」ということです。
TRPGやPBWでは、それがごく私的で小規模なものでない限り「世界観をデザインする人」と「個別のシナリオを作成する人」が同一ではないので、このことが重要になってきます。世界観は物語では「ない」ので、世界観だけではおはなしを書いたことにはなりません。ダメな小説サイトと同じで、世界設定コーナーをつくっただけでは小説を書いたことにはならない。
だから、世界観がデザインされたあとは、個別のゲームマスターが、物語を語らなくてはならないのですが、このとき、デザインされている世界観を無視しては意味がない。ゲームマスターたちは、その世界のルールをひもとき、それに逸脱しない範囲で物語ることが要求されます。その意味では、世界観のデザインにはあらかじめ語られるべき物語が内包されていると言える。
●「世界観」に埋めこまれている物語は使いこなすべきということ
アニメ『フラクタル』に関して、ナカタセイジがもっとも残念に思ったのは、この作品の世界観が非常に魅力的であったからです。「フラクタルシステム」なるものによって、地球上の全人類が働かなくてもよい社会が実現。しかしそんな社会が長く続くうち、システムに綻びが生じ始めて……という時代。ほとんどの人が拡張現実になじんでいて、バーチャルな世界を謳歌する一方、そんな社会に反対する運動が発生している。
この世界観には、実に潤沢で豊富な物語の種が埋めこまれていたと思います。ですが、語られたお話は、今ひとつ、この世界観を活かしたものに思えなかったのが、とっても残念に感じた点でした。いわゆるボーイミーツガールものの、ラピュタを思わせる冒険ものとして、まあまあの水準であったと思うのですが、それってこの世界じゃなくても描けましたよね?と思ってしまった。
西に広がる魔の森にはアンデッドがいるよ、という設定を語られたら、当然、魔の森でアンデッドと戦う話を期待したい。なのに、森の手前で野犬と戦う話は「なし」なのです。それは「ありうる」かもしれないけれど、ゲームマスターのセレクトを疑ってしまう。
さて、現在、放送中のアニメ『TIGER & BUNNY(タイガー&バニー)』は、アメコミ風のヒーローたちが未来都市で活躍する様子を描くお話ですが、この世界のヒーローたちは企業とスポンサー契約をしていて、コスチュームにはロゴがプリントされているし、その活動はすべてTVで放送され、評価によって報奨が与えられる、という設定になっています。
アメコミヒーローものをメタ的にパロディ化した設定なのですが、主人公は熱血漢で、ヒーローは人助けが本質と考える、一方で、彼とコンビを組むことになったルーキーは「どう活躍したらTV的に映えるか」いちいち計算したりして、主人公と葛藤が生まれる。
べつだんこの作品が特に、というわけではないのですが、エピソードやドラマがすべて、世界観と有機的に結びついているのがはっきりわかると思います。
●「世界観」とは「語られない物語の蓄積」かもしれないこと
最近、この「世界観と物語の関係」をメタ的にとらえ、それ自体を世界観化/物語化した作品がひとつの流行ないし潮流となっています。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生
』という本にこの内容は詳しいのですが(そして『フラクタル』の世界観をデザインした人こそ東氏だということに、なんかこう、忸怩たるものを感じたりもするのですが)、この系譜で近日の最大のヒット作が『魔法少女まどか☆マギカ』です。
『ゲーム的リアリズムの誕生』では、『ひぐらしのなく頃に』が詳しく分析されていますが、『うみねこのなく頃に』もまた同じ性質をもつ作品で、かつ、よりこのことに意識的につくられています。
このこと、というのは、つまり
(1)世界観はつねに、その世界の物語の種=起こりうる出来事の可能性をあらかじめ含んでいること
(2)「起こりうる出来事」は「起こりえない出来事」かもしれないこと
(3)あるひとつの世界において、あるひとつの物語が語られるということは、同じ世界で別の物語が語られないということ(※「まどか」や「うみねこ」は、それなのに、その物語を語ってしまうところに特徴のある作品だということ)
ということです。
「まどか」や「うみねこ」のようではない、多くの、作品において、「語られる物語はつねにひとつ」であり、しかしそのことは同時に「その世界観において、それ以外の、語られなかった物語が数多くある」ことを意味している。
このことをきちんと理解して物語れるかどうか、もっと言えば、そうであることを見越して世界観をつくれるか否かということは、創作上重要なことではないかなと考えています。
最初に、TRPGやPBWの世界観づくりは小説やマンガのそれよりも「世界観はシナリオソースになっていなければならない」ということがよりはっきりと意識されなくてはならない、と言いました。
その理由として、「世界観をデザインする人」と「個別のシナリオを作成する人」が同一ではないことを挙げましたが、もっと大事かもしれない理由として「ゲームが行われるまで、語られる物語が何なのかはっきりしない」ということがあります。ひらたくいうと、「プレイヤーの行動によって結果が変わる」のだから、その「可能性の幅」をあらかじめ担保しておく必要があるわけです。つまり「選ばれなかった選択肢のぶんも、シナリオを書いておく必要がある」。
小説やマンガは、通常、そういうことはなくて、「選ばれなかった選択肢のぶん」は、少なくとも作業上は必要ありません。ありませんが……よくできた創作物の世界観は、「起こらなかった出来事」「語られなかった物語」のぶんの、物語の種についても、あらかじめ内包しているものではないかと考えています。
いや……というよりも、「世界観」とは、そういう「語られない物語」の蓄積でないのか、そのようにさえ感じるのです。
だとすると、「世界設定紹介コーナー」だけで終わってしまった小説サイトこそは、ありえたかもしれない無限の物語世界へと続く扉であったのでしょう。それはもちろん幻で、しかし幻は幻の美しさをもちます。でも創作者としては、その美しさにとらわれてはいけなくて、無限の物語の中から、選ぶべきひとつを選びとり、物語る「勇気」が必要なのではないか――創作するとはそういうことではないか、とも思います。
だから『フラクタル』は成功しなかったかもしれないけれど、選びとられ、物語られたという点においては、「世界設定紹介コーナー」だけで終わってしまった小説サイトよりは価値があります。
ただ惜しむらくは、ナカタの目から見て、『フラクタル』に関しては「語られなかった物語」のほうを見てみたかった――そのような思いを強く抱かされてしまったということなのです。これをもって、この作品の評価を良いと見るか悪いと見るかは、実は難しいことかもしれませんね。
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●「世界観」には最初から物語の種が埋めこまれていないといけない
よくあるダメな感じの小説サイトで、なにか壮大なファンタジーの構想があるらしくって、「世界設定」を紹介するページとかあって、地図なんか載ってるんだけど、一向に本編がはじまらない……みたいなのがありますね。このへん、あまり追求すると胸が痛い人も多いと思うのでこれ以上踏み込みませんけれど、創作において世界観とは何なのか、ということを考えたい。
TRPGやPBWの世界観づくりという作業をしたことがあるひとがどの程度いるかわかりませんが、小説やマンガのそれと違って――というより、小説やマンガのそれよりも、よりはっきりと意識されなくてはならない作業の要件として、「世界観はシナリオソースになっていなければならない」ということがあると思います。
たとえば、こんな「世界観(世界設定)」があるとしましょう。
=====
なんたら大陸のなんとか地方。
中央に、なにがし王国。賢王が治める平和な国で、冒険者がたくさんいる。
西には「魔の森」という鬱蒼とした密林が広がり、昼なお暗い森にはアンデッドが跳梁する。
東の荒野は蛮族ホゲホゲ族の支配地で、辺境の村はときおり彼らの略奪に遭う。
=====
この設定は、
・魔の森に迷い込んだ旅人を救出し、アンデッドを退治するシナリオ
・辺境の村を蛮族ホゲホゲ族の襲撃から守りぬくシナリオ
が、このゲームにおいて発生することを内包しています。
これを「シナリオソース」といって、すなわち「物語の種」と言える。
ここで重要なのは、それはあくまでも世界観の段階では「種」であって、物語そのものではない。「魔の森に迷い込んだ旅人を救出し、アンデッドを退治するシナリオ」は、起こりうるけれど、「起こらないかもしれない」ということです。
TRPGやPBWでは、それがごく私的で小規模なものでない限り「世界観をデザインする人」と「個別のシナリオを作成する人」が同一ではないので、このことが重要になってきます。世界観は物語では「ない」ので、世界観だけではおはなしを書いたことにはなりません。ダメな小説サイトと同じで、世界設定コーナーをつくっただけでは小説を書いたことにはならない。
だから、世界観がデザインされたあとは、個別のゲームマスターが、物語を語らなくてはならないのですが、このとき、デザインされている世界観を無視しては意味がない。ゲームマスターたちは、その世界のルールをひもとき、それに逸脱しない範囲で物語ることが要求されます。その意味では、世界観のデザインにはあらかじめ語られるべき物語が内包されていると言える。
●「世界観」に埋めこまれている物語は使いこなすべきということ
アニメ『フラクタル』に関して、ナカタセイジがもっとも残念に思ったのは、この作品の世界観が非常に魅力的であったからです。「フラクタルシステム」なるものによって、地球上の全人類が働かなくてもよい社会が実現。しかしそんな社会が長く続くうち、システムに綻びが生じ始めて……という時代。ほとんどの人が拡張現実になじんでいて、バーチャルな世界を謳歌する一方、そんな社会に反対する運動が発生している。
この世界観には、実に潤沢で豊富な物語の種が埋めこまれていたと思います。ですが、語られたお話は、今ひとつ、この世界観を活かしたものに思えなかったのが、とっても残念に感じた点でした。いわゆるボーイミーツガールものの、ラピュタを思わせる冒険ものとして、まあまあの水準であったと思うのですが、それってこの世界じゃなくても描けましたよね?と思ってしまった。
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さて、現在、放送中のアニメ『TIGER & BUNNY(タイガー&バニー)』は、アメコミ風のヒーローたちが未来都市で活躍する様子を描くお話ですが、この世界のヒーローたちは企業とスポンサー契約をしていて、コスチュームにはロゴがプリントされているし、その活動はすべてTVで放送され、評価によって報奨が与えられる、という設定になっています。
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アメコミヒーローものをメタ的にパロディ化した設定なのですが、主人公は熱血漢で、ヒーローは人助けが本質と考える、一方で、彼とコンビを組むことになったルーキーは「どう活躍したらTV的に映えるか」いちいち計算したりして、主人公と葛藤が生まれる。
べつだんこの作品が特に、というわけではないのですが、エピソードやドラマがすべて、世界観と有機的に結びついているのがはっきりわかると思います。
●「世界観」とは「語られない物語の蓄積」かもしれないこと
最近、この「世界観と物語の関係」をメタ的にとらえ、それ自体を世界観化/物語化した作品がひとつの流行ないし潮流となっています。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生
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『ゲーム的リアリズムの誕生』では、『ひぐらしのなく頃に』が詳しく分析されていますが、『うみねこのなく頃に』もまた同じ性質をもつ作品で、かつ、よりこのことに意識的につくられています。
このこと、というのは、つまり
(1)世界観はつねに、その世界の物語の種=起こりうる出来事の可能性をあらかじめ含んでいること
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ということです。
「まどか」や「うみねこ」のようではない、多くの、作品において、「語られる物語はつねにひとつ」であり、しかしそのことは同時に「その世界観において、それ以外の、語られなかった物語が数多くある」ことを意味している。
このことをきちんと理解して物語れるかどうか、もっと言えば、そうであることを見越して世界観をつくれるか否かということは、創作上重要なことではないかなと考えています。
最初に、TRPGやPBWの世界観づくりは小説やマンガのそれよりも「世界観はシナリオソースになっていなければならない」ということがよりはっきりと意識されなくてはならない、と言いました。
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2010年10月05日
神話製作機械の夢
竹熊健太郎氏のブログで知って、反射的にタンブラったけど、こんなものが……。
Link: "田中圭一制作総指揮のマンガ作成ソフト、なし崩しで情報公開へ!: たけくまメモ"
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-eec6.html
「こんなもので作ったものはマンガとは言えない!」「オリジナリティというものが云々」とかいうのは、すみません、「そんなこと、みんなわかってます」し、「そんな話はしていない」ので。そういう議論とはまったく違う方向で、このツールは注目するに値するものだと考えます。
このツールがどうなるかは、今後、サードパーティ(←この言葉ってまだ生きてるのか?)やカスタマーによって素材がどれだけ提供されるかによるでしょうが、ここには何か決定的なものが潜んでいる感じはします。
旧来的に言うオーサリングツールの延長線上にこれはあるのだが、できあがるものが、「マルティメディアコンテンツ(笑)」などではなく、わかりやすいマンガという形である点がポイントです。あとは、成果物を発表するプラットフォームみたいなのとうまく結びつけば、ヴォーカロイドと同様の、新しい文化を形成できるんじゃないですかね。
ナカタ調べによると、「絵が描けないからマンガは描かない。かわりに小説を書いている」という人はかなりいます。このことは、同人の字書きは、だから絵描きよりも一段落ちるのだとか、文章より絵のほうが高等だとかそういう話ではぜんぜんなくて、現代の、同人界隈などで扱われる「物語」は、もともと「視覚的なものをセットにもっている」ということだと解釈しています。
つまり、ある人が、ある物語を発想したとき、それがどの程度明確かは差があるけれども、必ず視覚的なイメージもそこにはともなっている、ということです。文学と異なり、ライトノベルにはほぼ必ず挿絵があるのもこれが理由です。
このツールは、絵を描くスキルがなくても、一応、視覚的要素を含めて、物語を提示することができるようになるので、
・物語りたい欲求があり、
・視覚的要素にこだわりがあるが、
・視覚的要素を表現するスキルはない
という人には福音になるでしょう。
ただ、絵を描く技術は必要ないにせよ、「画をどのように見せていくか」という感性が必要なのはあきらかで、マンガを描いている人はだから、単純に絵を描く技術に加えて、その部分も持ち合わせていないといけないのだが、このツールを使いたい人はその要素については、ないわけにはいかないでしょう。
それは映画監督にも共通するもので、絵や文字の同人誌を発行するのは簡単だが、自主制作映画を作るのはなかなか大変だということを思えば、アマチュアの映像作家にもこれはいいかもしれないですね。
繰り返しになりますが、作者のイメージを、本人が絵を描かなくてもどれだけ適切に表現できるかがカギなので、とにかく素材の質とバリエーションに大きく左右されます。けれども、なにか非常に大きなものがこの土壌に埋まっている感じがするので、期待したいと思うのでした。
Link: "まったく絵が描けなくてもマンガが「ポッ!」と作れちゃう「コミPo!」登場"
http://comipo.jp/
※たぶんこの本とか参考になると思われ。
Link: "田中圭一制作総指揮のマンガ作成ソフト、なし崩しで情報公開へ!: たけくまメモ"
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-eec6.html
「こんなもので作ったものはマンガとは言えない!」「オリジナリティというものが云々」とかいうのは、すみません、「そんなこと、みんなわかってます」し、「そんな話はしていない」ので。そういう議論とはまったく違う方向で、このツールは注目するに値するものだと考えます。
このツールがどうなるかは、今後、サードパーティ(←この言葉ってまだ生きてるのか?)やカスタマーによって素材がどれだけ提供されるかによるでしょうが、ここには何か決定的なものが潜んでいる感じはします。
旧来的に言うオーサリングツールの延長線上にこれはあるのだが、できあがるものが、「マルティメディアコンテンツ(笑)」などではなく、わかりやすいマンガという形である点がポイントです。あとは、成果物を発表するプラットフォームみたいなのとうまく結びつけば、ヴォーカロイドと同様の、新しい文化を形成できるんじゃないですかね。
ナカタ調べによると、「絵が描けないからマンガは描かない。かわりに小説を書いている」という人はかなりいます。このことは、同人の字書きは、だから絵描きよりも一段落ちるのだとか、文章より絵のほうが高等だとかそういう話ではぜんぜんなくて、現代の、同人界隈などで扱われる「物語」は、もともと「視覚的なものをセットにもっている」ということだと解釈しています。
つまり、ある人が、ある物語を発想したとき、それがどの程度明確かは差があるけれども、必ず視覚的なイメージもそこにはともなっている、ということです。文学と異なり、ライトノベルにはほぼ必ず挿絵があるのもこれが理由です。
このツールは、絵を描くスキルがなくても、一応、視覚的要素を含めて、物語を提示することができるようになるので、
・物語りたい欲求があり、
・視覚的要素にこだわりがあるが、
・視覚的要素を表現するスキルはない
という人には福音になるでしょう。
ただ、絵を描く技術は必要ないにせよ、「画をどのように見せていくか」という感性が必要なのはあきらかで、マンガを描いている人はだから、単純に絵を描く技術に加えて、その部分も持ち合わせていないといけないのだが、このツールを使いたい人はその要素については、ないわけにはいかないでしょう。
それは映画監督にも共通するもので、絵や文字の同人誌を発行するのは簡単だが、自主制作映画を作るのはなかなか大変だということを思えば、アマチュアの映像作家にもこれはいいかもしれないですね。
繰り返しになりますが、作者のイメージを、本人が絵を描かなくてもどれだけ適切に表現できるかがカギなので、とにかく素材の質とバリエーションに大きく左右されます。けれども、なにか非常に大きなものがこの土壌に埋まっている感じがするので、期待したいと思うのでした。
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※たぶんこの本とか参考になると思われ。
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